こんばんは、潤治です
今日は幼児決断のお話です。人生脚本とも言いますが、幼少期に身につけた人生へのドラマのようなものです。
(人生脚本についての過去の記事はこちら…「過去は変えられる」)
僕は幼い頃、大人と人見知りせずによく話していました。両親もビックリして、その僕の、とにかく、何でも質問して、自分の思っていることを無差別にぶつけていた姿を見ていたそうです。安心の世界で、自由に自分を表現することを幼い頃は楽しんでいたと思います。
どんなことをしても、何をしてもいつも母がいて、父がいて、姉がいて、僕は大切にされていると確信していたのだと思います。
しかしながら、怖い世界への入り口を体験することになります。
一番痛烈に覚えているのは、小学校の入りたての頃、近所の男の子たちとマッチで遊んでいて、
空き地の木を燃やしてしまった時です。
消防車まで出動する大騒ぎになり、現場から逃げ出した僕は、すぐに犯人だということが
探しにきた子供たちによってわかってしまいます。
ご近所中が、このいたずらっ子のしでかしたいたずらを知ることになります。
血の気がひくという経験をはじめて経験しました。
その時の台所に肩を震わせながら、立っている母親の背中を思い出します。
母が、怒っているのか、泣いているのか…、確かめるのも怖いくらい、僕はコタツの中で震えていました。
何だかわからず、震えながら泣いていました。ボロボロと涙が出てきて、怖くて怖くて…。
僕のせいで、何かとんでもないことが起きている、怖いことが起きている。世界は破滅しそうだッ。
心臓がキュッと痛くなって、頭の中で低い鐘の音がなっているような感じがしました。
台所に立って背中を見せている母。どうしてふり返ってくれないの…?
本当は、抱きしめてほしかった…、震えている僕を抱きしめてほしかった…。
「大丈夫、怖くないよ、お母さんがついているよ」
「怖かったね、でも大丈夫。あなたのことを見捨てないから」と…。
程なくして、僕の数々のいたずらのためか、僕たち家族は引越すことになります。
子供ながらに僕は、母や父を怒らせない子になろうと決めます。
この決断が幼児決断といいます。怒らせないでいれば、安全だ…ということです。
両親との関係をよくしようとコントロールするようになり、僕はすっかりと道化師のような役割を演じます。
笑ってくれる半面、何となく違和感も感じます。
人と関わるということがとても難しいことだと幼いながらに思うようになります。
小学校〜中学校に進むうちにこの世は安全な世界ではない…と感じはじめます。
ほんの些細なことで傷つくこともあれば、傷つけることもある。
人間関係というものはやっかいなものと思うようになります。
いつの間にか、そのやっかいなものを扱うのに、予測してみたり、
遠ざけてみたりすることも昔は少なくありませんでした。
すっかり、大人になる頃は怖い世界の住人でした。
この世は安全な世界である…と大人になった今、もう1度思えれば、どんなに幸せなことでしょうか。
人間関係の中で、ありのままの自分を表現して、そのことで罰を与えられることはない。
皆がそれぞれ自分を認め、お互いを認め合い、罰を与えあうのではなく、愛を与え合うような世界。
今の僕は怖い世界から安心の世界へのリハビリをしています。
このリハビリはずっと続きそうですが、段階ごとに自分の成長をかえりみます。
人間関係からの恩恵を受け取る旅は、楽しいものだと最近は思います。
こたつの中で震えていた僕をこうして見つけ出すことで、
またひとつ怖い記憶が、今の僕に必要不可欠だった恩恵に変わるのでした。
成長とは、一日にしてならず…
毎日の積み重ねが高い波動を生み出すんですよね!
ドリーンさんのカルマCDにも『人は間違いを犯す事は出来ません』のフレーズがあったかも…
こうして、ありのままの人間らしい姿を表現する人こそ、本当のセラピストですね☆
僕たちは愛を選択することができます。
それは人間に与えられた自由意志という贈り物です。愛を選択しようとする気持ちからの表現はどんな文章でも人に響くと感じています。
本気の言葉かどうか…、自分自身にいつも問い続けています。
ともこさまのように本気の言葉を話される勇気に僕たちも勇気をいただきます。
これからもセラピストと呼ばれる人でありたいと思います。