AQUA MIXT 潤治です。
先日の記事
「消極的理由か積極的理由か あなたはどっち?(2)」
の続きになります。
僕が消極的な理由で動くプロフェッショナルだった頃の口癖、
「〜しなくっちゃ」
「〜するべき」
「〜したほうが良いかな」が失くなるのは、
ある経験がきっかけでした。
スピリチュアルな教えに、
「楽しむことが人生を好転させる」
「人生の本質は楽しむこと」
「楽しむことが浄化につながる」
とありますが、経験して学ぶたびにその理解は深くなっていくように思います。
ある経験とは…、ふたつあります。
ひとつ目は、「燃え尽きた経験」です。
寛子と出会う前、僕の原動力は「将来に対する不安」でした。
今のうち、何かしておかなくてはいけない。
今日働かなければ、来月のお給料が入ってこない。
生活が成り立たなくなる。
老後の心配、家族を持てるのか?といった心配。
ローンが払えなくなるという不安。
さまざまな将来に対する不安が僕を突き動かしていました。
なので、
くたくたに疲れ果てるまで働かなければ、
将来の不安に押し潰されるわけです。
仕事中毒にでもなっていなければ、
目の前にある不安をどうすれば良いのか分からないんですね。
素面(しらふ)じゃいらんねぇ状態です。
この場合、アルコール中毒じゃなく、仕事中毒ですが。
常に追い詰められたような緊張感の中で、
仕事にのめり込み、たまの休日は憂さを晴らすように過ごし、
次の日が出勤となると、仕事(仕事場での人間関係も含む)が嫌で
前の日の午後から、身体が震えてしまうほどでした。
嫌なことをだましだまし、続けていました。
しかし、ある時、一線を越えたわけです。
「燃え尽きた」のですね。
自分のために…ではなく、会社のために、部下のために、
その先には、地域発展のために…という大義名分も、
僕を幸せにしてくれるものではありませんでした。
(誰も僕を幸せにはしてくれないよ記念日)
義務を果たしたところで、
責任を背負ってみたところで、
出世を夢みたところで、
僕が幸せになるためには、
僕が自分で自分を満たすしかなかったことに気づいたわけですね。
もう、すぐに辞表を出しました。
(思えば無謀な行動でした…)
自分の人生なのに、その助手席に座って、ああだこうだと文句をつけて、
(運転席に座っているのは、誰かの価値観、トラウマ、社会通念など)
思う行き先に向かえないもどかしさを感じるゲームに気づいたのです。
消極的な理由の数々は、
自分の人生を自分で変えられるという
「自分のパワーや自由」を信頼していない言葉かもしれませんょ。
自分と自分の人生を信頼してみてもいいかも。
そして、
ふたつ目は…
次回 「消極的な理由で動き続けた男(2)」に続…き過ぎ?
タグ:潤治のひとりごと